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< 投稿> 不条理:親が生きて育てて死んで逝った姿を追う

月日は百代の過客とか言われていますが、今年も余すところ一ヶ月となりました。
少し場違いな話をします。私は信じるという意味がよくわからないことがあります。例えば、ジャンボ宝くじを買うとき(殆ど買わないのですが、何枚か買ってみると)何か当たるかもしれないと思ってしまいます。天神の宝くじ売り場で長蛇の列をみるとそんな気になるのです。
宝くじの当たる確率は1000万分の1,交通事故にあう確率は、5000分の1。実に2000倍の確率差があるのですが、何かジャンボは当たりそうで、事故には合わないだろうと思っている自分がいます。私の基準はどこにあるのでしょう。

今から80年ほど前に世界中の戦争がいったん終結を迎えました。人類史上類を見ない惨禍が収まったとき、残された人たちの心の中を考える時、この信じるという言葉が頭をよぎるのです。人と人、自分たちの住む世界そのものが信じられなくなったように思えたのではないか。
戦時を生き抜いた私たちの親はその時の心情を多くは語りませんでした。いえ言葉数自体は、日常生活の中で幾度も耳にしましたが、「あの頃は大変だった」という感想に留めていました。今から思えば、わざわざこの世の最も重苦しい時を、我が子に知らしめる必要はないと思ったからでしょう。父は手りゅう弾と銃弾で傷痍軍人となり、母は疎開先でやったこともない開墾作業で姉を養い、そして耕した田畑を無理やり没収されたのですが、その時の血のにじむ苦労も私たちには詳しく話さず、夜になって夫婦でひっそりと話をしていたのかもしれません。

この時代に「不条理」と言う言葉が流行りました。全ての人間の虚しさや矛盾に満ちた世界を表した言葉です。家族会の会報に相応しい内容かどうか迷いましたが、私は当事者の心情、及びそれを支え悩み苦しむ家族の心情にこの「不条理」が重なるのです。私はこの数年間我が子の引きこもりからの脱却を目指し、いろいろ活動していますが、その間もこの「不条理」を感じずにはいられません。
この心境の中でふと親が自ら背負った「不条理」の処し方を考えるのです。親はその重荷を夫婦互いに背負いながら、人を信じ、裏切られ、途方に暮れながらも私たちを育ててくれて、そして逝きました。私は今、我が親の生きざまの中に答えがあると思っています。因みに「不条理」の言葉を発した人たちはこの命題に対しての対決姿勢を次のように締めくくっています。
・生き永らえること。
・自分で判断し決断すること。
・今思っている夢を継続すること。
親が死に物狂いで私たちを育ててくれたことに改めて感謝します。(H・K)