■楠の会だより投稿文の紹介■

<投稿  親父が息子に願うことは・‥‥>

「智に働けば角が立つ、情に掉させば流される・・とかくに人の世は住みにくい。」
夏目漱石「草枕」の冒頭です。私が息子の事でひきこもりに正面から向かい合った時は、遮二無二この「智」を貪っていたように思います。

「あの物憂げで暗い表情の下には何への思いをつのらせているのだろうか」
親としての不安を打ち消すための答えを求め、模索し、相談に通い、専門家の話を聞き続け、書籍を乱読する。しかし前に進んだつもりが、疑問は増すばかり。又、我が子に対する思いは、日替わりの連続である。可哀そうでもあり、腹立たしくもある。虚しさに落ち込むときも、いい加減に眼を覚ませと子供部屋の扉をけ破りたくもある。結局、ひきこもりは我が子である当事者にしか乗り越えることが出来ないのだとも思う。親は傍らで彼の親としてあがく姿を見せるだけの事。親と子が相互納得できる人生を歩みだす事が唯一の解決だと結論づけをしたいくらいだ。

「草枕」は続きます。
「人の世を造ったのは、神でも鬼でもない。向こう三軒両隣にちらちらするただの人である」
現代は情報に溢れている。私が生まれた頃の何百倍もの情報が毎日のように流れている。人々はそれを追い求め、寝る間を惜しみ、食事の最中も片時もスマホを離す事なく過ごしている。半世紀の間にそれほど情報が必要になったのだろうか。いやそうではない。情報に振り回され、情報に依存しているだけではないか。情報の専門家は常々「情報の正しい処理とは情報を集めるより、いかに多く捨て去るかにかかっている」と語っている。人は頭でものを考え、体全体で事を思っている。いっその事、親子して頭をカラにしてみればどうなのだろう。朝目覚め、飯を食らい、無心に働いて汗をかき、くたくたに疲れて眠りにつく。夜は暗闇と沈黙が、清々しい明日がくるまで寄り添ってくれるから。その結果、ちらちらするただの人になれれば万々歳だ。父はそう思う。 (K・T)