■楠の会だより投稿文の紹介■


<社会や親たちに訴えたいこと>
              福岡「楠の会」K

私の方から親御さんの方々、ひいては社会一般の方々にお願いしたいのは、人権という原理に足場を置いてものを考える姿勢を身につけて欲しい、ひきこもりに限らないあらゆる差別をなくしていこうという目標を持って欲しい、ということです。(などというと、大げさなものいいに聞こえるかもしれませんが、社会の主流から外れた立場にいる者からすると、これは具体的な痛みをともなった切実な願いにほかなりません。)
発表の中でも申し上げたとおり、いろいろな場所で社会参加しておりますと、どこへ行ってもカジュアルに排外主義的な発言をされる方がおられます。(それも対人援助に携わっている方だったりするので余計に驚き、つらく感じるのですが。)
「ある属性をもっている者ならばいくらでもバッシングし、排除してよい」という排外主義の思想は、たとえもっともらしい理由付けがされていても、多くのひきこもり者が経験している“いじめ”と論理が共通しています。
自分に向けられたのではないとわかっていても、自分が排除されているように感じるひきこもり者も少なくないのではと思われます。
ひいては「〔ひきこもり者が出てくるべきとされる先の〕社会とは恐ろしいものだ」という印象を強化するでしょう。
これらは国や民族だけの話に限りません。ジェンダー、セクシャリティ、趣味、信仰、障碍など、様々な属性を基準として“普通”でないものを排除し切り捨てる思考や発言がメディア上にはびこっています。
その最たるものが例の「生産性がない者は不要」言説です。
近年のそれは障がい者とセクシャルマイノリティに向けられたものでしたが、経済的な財を生み出していないことに関してはまさしくひきこもりも同様なわけで、働いていないならば価値がないと言われてしまえば、それこそ働く/他者と関わるのに必要な自己肯定感さえ削がれてしまいます。
仮に“普通”に属することによって自尊心を得ようとしても、そうした「~であるなら、~ができるなら“普通”に入れてあげよう」というロジック自体が、「自分のダメなところや弱いところ、悪いところも含めて自分が存在していることはいいことなのだ、許されているのだと、自分をまるごと肯定する存在レベルの自己肯定感」(次掲書 p. 171)とはかけ離れたものであることは高垣忠一郎『生きることと自己肯定感』(新日本出版、2004年)においてすでに指摘されている通りです。
こうした状況になっているのは、政治史的・文化史的経緯に加え、失政や不正をごまかしたい権力者たちによるメディアへの懐柔・恫喝・介入(全国ネットのTVは特に。できればこの影響の薄い地方や海外のメディアを参考にして欲しいと思います)のため、及び、部数減によって売れればよしの姿勢を強める出版業界のためも要因として大きいかと思われます。
そのためこうした風潮を個人の力で覆すのは極めて困難ですが、これはおかしいことだと気づいたひとりひとりが、せめて手の届く範囲の人たちに訴えていくことによって,社会がよいものになる可能性を少しは高めることができるかもしれません。
その意味で課せられた責任を果たすべく、今回の筆を取らせていただきました。
みなさまの意識の片隅にでも置いていただければ幸いです。